大阪城新橋を渡ってJO-TERRACEに出、ここから大阪城ホールの横を通って次の橋まで歩く。・・・中央区橋から橋まで総めぐり~。
⑫新鴫野橋
この橋は大阪城三の丸の整備が行われたときに架けられ、当時は鴫野橋と呼ばれる公儀橋だった。また城内にあったため一般の人は利用できなかったそうだ。現在の橋は、昭和63(1988)年のもの。
この辺りも外国の観光客が多い。橋の由来碑があるので撮影したかったが、碑の前に外人が一人座って休憩していたので諦めた。
さて、ここから次の葭屋橋までは遠い。街歩きと言いながらも何らかの交通手段がないか探してみたが、結局歩くのが一番早いようで・・・。
途中、大阪城桃園と言うのがあった。文字通り桃の公園。敷地面積4,400m2、12品種200本を超える桃の木がある。季節がらただの公園にしか見えないが、3月中旬から4月中旬まで桃の花が楽しめるので、来年の桃の季節に来たいものだ。
ここから葭屋橋まで約25分のウォーキング。歩いていると汗ばむ気候だ。
⑭葭屋橋(よしやばし)
ここからは市内を南北に横切る「東横堀川」沿いを南に向かって歩くことになる。
この辺りは古くから大川の眺望が非常に良く、料理屋や旅館などが建ち並び、また舟の荷積みや荷下しでも賑わい発展したところで、明治8(1875)年「大阪会議」が開催された花外楼という料亭は今も健在している。( 中央区橋から橋まで総めぐりより)
現在の橋は車の往来の激しい、あまり風情もない橋である。
ちょうど水門の開閉に巡り合ったようで、しばらく眺めてみた。船のほうは「大阪ワンダークルーズ」と言って、水都大阪を巡るクルーズ船のようだ。
さて橋のほうは、
⑰平野橋
橋の設計には建築家の武田五一(意匠)が加わったと言うだけに、横から見ると美しい橋である。
⑱大手橋
橋のデザインは独特の雰囲気があって良い。
⑳農人橋
『摂津名所図会大成』には「この橋はいにしえより農民が 田畑へ往き通うための橋で土橋と同じような形式であった。 寛永・正保の頃(1640年頃)までは船場には田畑や芦原など が多くあって、町家は上町に多かったからである。寛永年間、 大坂の町家は地子銀(じしぎん)が免除になったため、田畑・ 芦原の地にも町家が建てられ、急速に繁栄していく。これに 伴って橋も高欄擬宝珠(ぎぼし)を持った立派な橋になっ た。」とある。
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